適当にしますかぁ
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アイちゃん今日は投稿できそう
2006年11月28日 (火) | 編集 |
アイちゃんつまらないかもしれないけどこのまま続けるよ
それでいいんじゃないの真面目な事書いていても読んでくれる人がいるんだから
そうだねホナ続きいきますか

人間の基礎作りの時期に土台がつくれなかった
無力に生まれて、仲間として育てられ、そこで食べ方も、歩き方の教わる。
しかしそれ以上に大切なのは、仲間として育てられ、そこで食べ方も歩き方も教わる。
しかしそれ以上に大切なのは、仲間といることを教えられる。そこでコミュニケーション能力を身につける。
うつ病になるような人の場合、それを教えるべき肉親がその人を仲間はずれにしていじめるのである。
小さい頃のいじめは、大人になって会社に入っていじめられるのと訳が違う。
人間として最も大切な基礎をつくるところで、基礎を滅茶苦茶にされる。土台作りをする時期に土台を作らせない
こうして生きる土台がないまま人生をスタートする人もいる。
それ以後どのような環境になっても、その素晴らしい環境は、掛け算でゼロをかけられた数字のようにゼロになってしまう。
肉親は、天使にもなれば悪魔にもなる。天使になれる力があるから、悪魔にもなれるのである。
うつ病者の「人が楽しそうにしているとますます心が暗くなる」という言葉は十分に考える必要がある。
普通は「人が楽しそうにしていると自分も気が晴れる、明るくなる」。
しかし逆に「暗くなる」ということはどういうことであろうか。
それは「なんで俺だけが、こうなんだ」という気持ちが強いからである。
うつ病になるような人は、普通の人と違って自分は特別に辛い人生をを生きていると思っている。
その不公平感がうつ病者を苦しめているのである。
「何で俺だけがこんな辛い思いをしなければならないんだ」という無念さである。
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テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃん(。∂。∂。)オヒサ♪だよ
2006年11月23日 (木) | 編集 |
ユウくん久しぶりの投稿ね
そうなんだよなぁ今の仕事人使いがあらいんで昨日は13時間労働だどぉ いい加減にしてほしいよまったく 今日は11時間労働だから投稿できるぉ
ほなひさしぶりにスタート

体の怪我は見えるが、脳の怪我は見えない
うつ病者は心理的には崖っぷちで何かをしている事が理解できないと、なかなかうつ病の言動は理解できない。
外側だけを見ていけばうつ病になる人は、時に「あんないいことばかりして何が不満なんだ」と思われることも多いからである。
うつ病者は正体不明なものに脅かされている。何でこうなるかが本人も理解できない。
うつ病者はモラルの問題ではなく、脳内化学物質の問題であるという点の理解が大切である。
このことはアメリカのABCニュースがうつ病特集をした時に繰り返し解説された。
足に怪我をすれば周囲の人にはよくわかる。しかし脳の中の変化は外には見えない。
ある時、テレビで視覚障害者がサッカーをしているところが放映された。すると皆が「偉い!」と言う。
しかしうつ病者がサッカーをしても「凄い!」と言わない。
目の機能が完全でも、能の視覚を司る部分が機能不全に陥ればものは見えない。
視覚も同じである。耳の機能が完全でも、能の聴覚野が障害を持てば聞こえない。
傍からみてその人はなにかができるように見えるが、外から見えない脳に障害が出れば実際にはできない。
うつ病者が何もしないでいる姿を見て、人はうつ病者の「やる気」のなさを批判する。
みるのも聞くのも、脳で見て脳で聞いているように、人は何か脳でしている。うつ病は脳の障害なのである。
その点でうつ病者は不当な批判にさらされてきたと言うべきである。
「できない」という事が普通の人に理解できないからである。
足の裏に怪我をした人が「歩けない」と言えば普通の人は理解する。
しかし、五体無事な鬱病者が「歩けない」といっても、普通の人はなかなか理解できない。
それは人は足で歩いていると思っているからである。
人は足で歩いているのではない。人は脳で歩いているのだ。
うつ病者はその脳が傷んでいる。足の裏の怪我は見えるが、脳の怪我は見えない。
親さえいなければもう少しまともに生きられた
親のいない子を普通の人は「可哀想に」と言う。しかしうつ病になるような人からみれば、うつ病になるような人から見れば、
「親のいない子はなんと幸せなんだろう」ということである。
「親から心理的に搾取される」ということが理解できないと、うつ病者を理解する事はできない。
うつ病者は「親さえいなければ」、何とかまともに生きられたのである。
親によって脳がダメージを受けた時、普通の人はそれを理解しようとしない。
その親さえいなければ脳はもう少しまともだったに違いないのである。
後にも説明するが、偉大な精神学者フロム・ライヒマンが言うように、うつ病者は愛を求めていたのである。
これをすれば、愛をくれるだろう、これに耐えれば愛をくれるだろうと子供は親に尽くし続けた。
悪い男に引っかかった女を考えてみれば分かる。愛を求めているから、男の言いなりになる。
恋に落ちた女は悪い男から搾取され続ける。恋愛も親子関係も同じである。
愛を求めている側が弱い立場になる。これをすれば「いい子と言ってあげる」ということで、子供は自分をまげて頑張り続ける。
「こうなれば愛してあげる」ということで、子供達は親にとって都合のいい子供になる。
そうしているうちに心は憎しみでズタズタになっている。憎しみの感情で脳は変形している。
幼児期、少年期、青年期をとうしてオカシクなった脳は、そう簡単にまともにならない。
はきだされない憎しみの感情にしはいされることで、その人は最後には心理的に閉じこもる。
もう誰も自分のことはわかってくれないと閉じこもる。
周囲の人にとってはその人がなんでそ閉じこもったかは分からない。
その人が何で憎しみを持ったかは分からない。その人が何を求めているのかも解らない。
愛をもとめているがゆえに閉じこもったのである。愛をもとめているがゆえに憎んだのである。
テーマ:ひとりごとのようなもの
ジャンル:日記
アイちゃん疲れ気味なのでこれだけ
2006年11月19日 (日) | 編集 |
心理的にいえば、うつ病になる人は崖っぷちで頑張って縄跳びをしているようなものである。
普通の人は縄跳びをしていれば楽しい。
外から見えるのはうつ病者であろうと、普通の人であろうと縄跳びをしているということだけである。
縄を回しながら飛び跳ねているのだから、外から見れば楽しく見えて不思議でない。
しか幼児的願望を満たしてくれなかった親
しうつ病者は落ちれば死ぬという崖っぷちで、いま落ちるか落ちないかという危険の中で縄跳びをしている。
うつ病者は幼児的願望が満たされていない。周囲の人から愛されて成長していないからである。
周囲の人から愛されていないどころか、周囲の人は、うつ病者が感情を表現できなくて言いなりになることをいいことに、負担を押し付けてきた。皆で利用してきたのである。
うつ病になるような人は、不当に押し付けられた負担に抗議できない。淋しくて周囲の人から好意がほしいからである。
抗議できないから、こころのそこで周囲に恨みをもつ。
うつ病者はその憎しみを表現できないままどうにもならなくなっているのである。
彼らは実際には動くことが出来ない。何度もいうように、憎しみを持つ相手から愛を求めているからである。
親はうつ病になるような従順な子供の幼児的願望を満たしてやらないばかりか、
逆に自分の感情のはけ口としてその子供を利用してきた。
だからうつ病になる人は親をはじめ周囲に恨みを持っている。しかしその恨みを表現できない。
もしその憎しみを何らかの形で表現できれば、うつ病者もうつ病にならなくて済んだのである。
しかしうつ病者は逆に周囲の人にいい顔をしてしまっている。
だから長年の憎しみが心の底に根雪となって凍りついている。憎しみが心の底にあれば、何をしても楽しくはないのは当然であろう。
うつ病者になるような人は楽しむ能力に欠如している。生きることが楽しくなるためには憎しみを取らなければならない。
根雪のように心の底に凍りついた憎しみを取り去らなければ、彼らは何を得ても喜べない。
長年にわたって憎しみを心の底に堆積させた人は、他人の苦しみだけが喜びになる。
テーマ:つぶやき
ジャンル:日記
アイちゃん今日は何とか投稿できるわ
2006年11月13日 (月) | 編集 |
あ~しんどいぉ
ユウくん御疲れ様
じゃあ続きいきますか
ホナスタート

気分のいい場所にいても気分が晴れない
うつ病者に特徴的な感情についてここで少し考えてみたい。
彼らには何よりも抑うつ感情といわれるものがある。それは表現されない憎しみの感情である。
表現されない憎しみの感情を心の底に持っていれば、気分のいい場所にいても気分ははれない。
だからうつ病者はどこにいても暗い顔をしているのである。気分のいい場所にいて暗い顔をしていると、第三者は、「こんな気分のいいところにいるんだから、皆から見れば羨ましい環境だよ」という。「それなのにそんなくらい顔をしていたら、馬鹿らしいじゃないか」と言う。
そういう人は、生きることに疲れた人と違って心の底に憎しみを堆積させていない。
うつ病になるような人や生きることに疲れた人は、気分のいい場所にいても、その気分の良さを味わう心の能力がもうないのである。
心の能力とは生命力である。生きることに疲れた人は生命力が低下している。
先に書いたように、「こんなきぶんのいいところにいるんだから」と言われるとうつ病になるような人は、「誰も本当は自分のことを理解してくれない」と言う無念な気持ちになる。
はけ口を失った憎しみは行動力を奪う
うつ病者は何をしても楽しいと感じない。それは何度もいうように心の中に憎しみがあるからである。
そして幼児的願望が満たされていないから自己執着が強い。
激しい自己執着があるから、物事がなかなか期待したように進まず、生きることに疲れてしまう。
楽しい体験がないということがうつ病者の最大の問題だろう。普通の人が楽しいから、うつ病者は楽しくない。
でも普通の人は自分が楽しいから、うつ病者の感情が理解できない。
うつ病者は何でそんなに憎しみに苦しんでいるのだと疑問を持つ人がいるだろう。
普通の人は、相手から殴られれば、相手に憎しみを持つと言うのは理解できるだろう。
だが殴られていないうつ病者が憎しみのを持つというのはなかなか理解できない。
しかし、人が相手に憎しみを持つというのは、何も相手から殴られたときばかりではない。
心ならずも相手に服従した時にも相手に憎しみを持つ。
相手を恐れて相手に迎合した時にも心のそこで相手に憎しみを持つ。
外側から見れば、お互いの間に何も暴力は発生していない。何事もないように見える。
しかし、そこには物凄い憎しみが生じているという事である。
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ジャンル:日記
アイちゃんシンドイど~
2006年11月08日 (水) | 編集 |
どうしてしんどいのユウくん?
残業が長すぎる4時間までにしてほしいよまったく毎日毎日4時間以上だから嫌になるわ
きついところね
そうだよ2時間までならガマンできるけど無理だわほんと
てことできょうも続き行きますか
ホナスタート

幸福へのターニングポイント
いまあなたは生きることに疲れてしまった。今までの生き方が愚かな生き方だと分かった。
生きることに疲れるという代償を払って、今までの自分の人生を理解したのである。
幼児的願望が満たされていないのは、貴方の責任でない。
また不運にも、誰も「ああいう人と付き合ってはいけないよ」と教えてくれなかった。
生きることに疲れたときは、まさにあなたの生き方を変えるときである。
生きることに疲れたときは、幸運へのターニングポイントである。
生きることに疲れたときはあなたの人生の節目なのである。
節目があるから竹は先に伸びて行ける。生きることに疲れたあなたは、いま誰に会いたいか?
もし会いたい人がいれば、その人がこれからの人生をともに歩む友人である。
もし誰にも会いたくないならば、じつはいままであなたは嫌いな人につくしていきてきたのである。
あなたの周りには誠実な人はいなかったのだろう。
生きることに疲れたとき、それはあなた自身が自らをわかるときであり、周囲の人がどういう人であるか分かる時である。
あなたがあなたの人生を理解する時である。無理をして生きているときには、あなたはあなた自身も周囲の人も分からない。
それは人間関係を間違える時でもある。生きることに疲れたときに、初めて誰を大切にして生きていったらいいかが分かる。
うつ病者はあまりにも真面目に合理的に生きてきすぎた。そうしたことを価値があると思いすぎた。
だからエネルギーがなくなってしまったのである。
エネルギーのある人は、朝、花に水をかけるその水のかかった花をを見て、朝だなーと思う。
そして「朝だ、朝だーよ」と歌いたくなる。
生きるエネルギーに満ちている人は、その水のかかった花や葉をみて、花や葉が「おいしい、おいしい」と水を吸っていると思う。
近代合理主義の世界にいきるところにエネルギーの供給源があるのではない。
人間の生きるエネルギー源は、非合理的な感情の中にある
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アイちゃん俺はなんで負担を押し付けられるのか
2006年11月05日 (日) | 編集 |
どうかしたのユウくん?
新しい会社にはいったばかりだというのに俺に仕事の改善を俺から上司に言って欲しい言ってきた。
それでそうするの?
言わないわけいかないけど又たぶん失職して仕事を探す事になりそうだよまったく責任を押し付けるのもいい加減にして欲しい
また倒れるかもしれないじゃないか
どうしてくれんだほんとにあ~しんどぉ
ってことで今日も書きましたので御暇なら読んでね!
ホナスタート

「惨め中毒に」にかかっている人たち
しかし生きることに疲れた人の中には、こうして憎しみの感情を吐き出すことすらできなかった人が多い。
安易に正義を叫んで市民運動などに参加できない人たちである。
生きることに疲れた人はストレートに憎しみの感情を晴らすことができないし、身代わりをえらんで憎しみの感情を晴らすこともできない。
犯罪という形で心の底の憎しみを外に出すこともしない。愛されたくて頑張って、無理をして、そして消耗した。
そこで生きることに疲れた人は、憎しみをまったく違った言葉で吐き出しているのいるのである。
そこで生きることに疲れた人は、まったく違った言葉で吐き出しているのである。
だから周囲から見れば惨めではないのに、彼らは惨めさを誇示するのである。
「なぐさめ中毒」と言う言葉が英語にある。アルコール中毒の人がいつもアルコールを飲んでいなければいられないように、彼らはいつも自分の惨めさを誇示していなければ生きていられないのである。
自分はいかに周囲の人から酷い目にあわされたか、いかに思い負担を不当に背負わされているか、いかに皆から不公平を扱われたかなどを延々と話していなければ生きていられない。それは何故か?それは、惨め中毒の人は、自分の心の底にたまった憎しみの感情をどうにもできないからである。その心底に堆積した憎しみの感情を、惨めさを誇示することで吐き出さないではいられないのである。
それが惨め中毒である。生きることに疲れた人は惨め中毒にかかっている。
消耗しているのが周囲の人の目に見える。いかにも疲れてやつれている。だから周囲の人も貴方と一緒に居たいとは思わない。
自分の失敗をありのままに話す
だから生きることに疲れたうつ病者は、何よりもいま自分の経験を人に話すことである。うつ病者は自分の失敗の経験を話すことである。
それを話せる人を探すことである。もし見つからなければ日記でもなんでもいい。安全な所に吐き出すことである。
人に認めてもらうために無理したことを素直に話すことである。生きることに疲れた人は、心の底ににたまった恨み辛みのすべてを吐き出すことである。そうすればきっと幸せが手に入る。それで生きるエネルギーが戻ってくる。
「自分はこの時にこう感じていてけれども、そう思うのが怖かった」とか、「好かれたいからこうしたけれども、本当はするのが嫌だった」
とか、「そのうちに何もかもが億劫になった」とか、自分の失敗のありのままに話すことで、自分を出すのである。
そして生きることに疲れたうつ病者ににとって大切なのは、自分のいままでの生き様をを信じることである。
失敗したことは恥ではない。それを肥やしにして幸せを手に入れるのである。「私はこうして生きてきた」、それでいいのである。
人が失敗するのに失敗するだけの理由があって失敗しているのである。しかしあなたは何も好き好んで愚かな生き方をしてきたのではない。止むに止まれぬ心の必要性から愚かな生き方をしてきたのである。
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ジャンル:日記
アイちゃん今日はへこんだ!
2006年11月01日 (水) | 編集 |
どうかしたの?
アイちゃん新しい仕事に就いたんだけど君ははパソコンができるだよな
と言って他の人にまでこの人はパソコンが趣味みたいだと紹介するんだ
ユウくん趣味みたいなものじゃない
確かに趣味には違いないけど会う人会う人に紹介するごとに言われたら
何か悪い事をしているみたいに感じるよ
確かに嫌よね!
パソコンはできませんと言っておけば良かった失敗した~
しかしブログもやっているなんて言ったら多分変人扱いされるかもしれないよ まったくぅ
アイちゃん愚痴言ったらスッキリしたわ
ってことで今日もつづきだよ
ホナスタート

人類を愛することは優しいが、隣人を愛することは難しい
もちろんあなたがそうして理由はわかる。他の箇所でも書いたように、あなたは淋しいから、愛情飢餓感から人に気に入られようとした。
気に入られるために自分を出さなかった。いや出せなかった。
生きる事似る疲れたあなたが、かろうじて自分を出すには、何かかこつけて自分を表現してきた。
例えば、憎しみをストレートに表現できないから、正義を主張することで憎しみを吐き出そうとする。
正義を主張しないと、自分の怒りを表現できないから、正義を主張していただけでないか。
正義を主張する人がどうして日常生活がごまかしに満ちているのか。
戦争反対の正義を叫ぶ人の中に、隣人に冷たい利己主義者がいないだろうか。
家族をほったらかしにして心理を叫んでいる人がいないだろうか。
正義や心理を唱えている人が、いかに実際の日常の隣人の心を傷つけていることだろう。
彼らは正義とか心理とかを持ち出して、自分の怒りや憎しみの感情を表現しているのである。
「人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい」という格言にならって言えば、「正義を唱えることは優しいが、人の幸せを喜ぶことは難しい」のである。
正義や心理をとなえている人の中に、人の不幸にほっとして安らぎを感じる人がいるのは、彼らの心の底に憎しみがあるからである。
そういう人は、そのままでは自分の感情を表現できない弱さがある。
その弱さの実態が幼児的願望である。
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