適当にしますかぁ
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アイちゃん自分を表現できれば楽だよ
2006年10月29日 (日) | 編集 |
そうね自分をさらけ出したほうが楽かもね
長い人生だもん自分を押さえつける必要はないかもね
てことでいきますかあいちゃん
ホナスタート

自分を抑えすぎるから、生きることに疲れる
生きることに疲れたあなたは、長い事ヘビが竹筒に入って真っ直ぐ進むような生き方をしてきた。
他人が真っ直ぐ進むことを期待したからである。他人に気に入られようとしたからである。
自分の感じ方よりも周囲の人の感じ方にあわせてきた。そして「よい子」と言われてきた。
生きることに疲れたあなたは周囲の人に受け入れられる事が最も重要だったから。
あなたは皆から「よい人」と言われてきたが、それで何を得たのか。生きることに疲れただけではないか。
それに対して周囲の人はどうか。利己主義で、攻撃的で、欲得だけで生きているではないか。
そう言う人は生きることに疲れているだろうか。あなたと同じように生命力が低下しているだろうか。
私は利己主義で攻撃的な人間と同じようになれと言っているのではない。
あまりにも自分を抑えすぎたのと、あまりにもワガママな彼らとの違いを考えて欲しいのである。
自分を抑えすぎたあなたはいい人と言われ、最後には生きることに疲れた。
それに対してワガママで利己主義の彼らは生きることに疲れていない。いまも暴れ回っている。
モチロン彼らはやがて周囲の人々から恨まれて社会的に孤立するだろう。
年をとった時には周囲に誰も親しい人はいない寂しい老後が待っているだろう。
それがあまりにも反社会的すぎた彼らの末路である。しかし社会的に過剰に適応したあなたは、何を得たか。
人に気に入られようとして結果、生きることに疲れただけである。
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テーマ:真面目で深刻な話。
ジャンル:日記
アイちゃんやっぱり愛だね
2006年10月25日 (水) | 編集 |
ユウくんが愛って言うとどうしても嫌らしくかんじるよ
ま~仕方ないよね男だから頭も中と体の行動が一致しないとき
もあるわなぁ 特に若いオネえちゃんを見ているとね
ってことでじゃあいきますか
ホナスタート

真面目だけでは幸せになれない
憎しみを気づかれまいとする緊張感で消耗する
生きることに疲れたあなたは真面目に生きてきた。しかも犯罪という形で憎しみを吐き出す事もなく生きてきた。
あなたは真面目である事が望ましい事と思い、真面目を信じて生きてきた。
例えばうつ病者などは真面目でありさえすればいいと思っている。
しかし真面目な自分の心の底に何が堆積されているかには注意を払わなかった。
よく人は疲れたと言う。生きることに疲れたと言う。しかし人生に疲れたのではない。
生きることに疲れてのではない。正確には憎しみを抑圧することに疲れたのである。
あなたは真面目に生きてきた。しかし自分の憎しみの感情を吐き出すことはなかった。
その憎しみの感情を吐き出すことが出来ないので、内的緊張を強いられてきた。
心のそこで思っていることを言わないことで人は消耗する。だから何もしない人がいつも疲れたりするのである。
外側では何も見えないが、内面では物凄い衝突が起きて、その衝突でエネルギーを消耗してしまう。
思ったことをポンポン言ってしまう人は、外側は動いているようで、実は心は疲れない。
心の仲でいつも衝突している人は、川の流れをいつもせき止めているようなものである。
思ったことをポンポンと言ってしまう人は、川の流れがスムースに流れている。だから疲れない。
貴方は心のそこで人を憎みながらも、周囲にいい顔をしてきた。
それが消耗の原因である。生産的なエネルギーを使わないで、心の中の衝突でエネルギーを消耗してしまった。
さらにもう一つ消耗する原因がある。それは心の底の憎しみを周囲の人に気づかれまいとするからである。
自分の心の憎しみを周囲の人に気づかれまいとする事が自分の心の中に心理的な緊張を生み出し、その緊張感がエネルギーを消耗する。
心に憎しみがあると他人に心を開けない
そして憎しみが心のそこにあるから貴方は他人にやさしくなれない。他人に優しくなれないから結局は本当の友達もできない。
これらの事が総合されて、人に対して心を開けないでいる。
そして真面目に生きてきたあなたはいま生きることに疲れている。もう何もする気がなくなっている。
働く事も遊ぶ事も億劫である。人と会うのも億劫である。
日本の若者は世界の若者の中で最も不満が高い。でもその内容は世界の若者の不満とは違う。
その不満はいまのあなたの不満と同じである。真面目に生きているのに報われないという不満である。
日本の若者の不満は「これがしたい」けど「これが出来ない」という不満ではない。
人を信じなければ幸せになれない
では、真面目な人がなぜ幸せになれないか。それは真面目な人が勘違いをしているからである。
真面目な人は、真面目でありさえすれば幸せが手に入ると思っている。
それはデパートの前に開店前から並んでいれ場商品がただでくれると思い込んでいるようなものである。
自分が開店前から並んでいるのに、後から来た人が商品を買っていくのを見て、「不公平だと」嘆いているようなものである。
うつ病者は後から来た人がお金を払っている事に気がつかない。
うつ病者は自分がお金をはらっていないから商品がもらえないのだと気づいていない。
このデパートの商品が「幸せ」である。
真面目でありさえすれば幸せになれると思って真面目でいても、いつまでたっても幸せにはなれない。
真面目でも人を信じなければ幸せにはなれない。愛を信じなければ幸せになれない。
人と親しくなければ幸せにはなれない。真面目でも人とコミュニケーションできなければ幸せになれない。
それらのことは心の底に憎しみがあったら無理である。心がふれあえなければ幸せにはなれない。
真面目だけでは幸せにはなれない。うつ病になるような人にいま大切なのは「自分を出す事である」
うつ病になる人は長い事自分の感じ方、自分の考え、自分の印象などを表現して人に好かれようと努力してこなかった。
人は自分を出してしまった方が愛される。しかし「適応した子供は」愛されるためにはお行儀よく振舞う事だと思い込んでいる。
無理をしていない子供の方が愛される。それが素直さというものであろう。逆に言えば素直でなければ何をしても幸福にはなれない。
アイちゃん必要なものってなんと思う
2006年10月22日 (日) | 編集 |
アイちゃん心の病に必要なことだよ
なんだろう?
それは愛だよアイちゃん
ユウくんの場合物凄く嫌らしく感じるんだけど!
ま~あ仕方ないわな男だから
ってことで真面目な方にいきますか
ホナスタート

不幸は偽装された憎しみ
不幸は偽装された憎しみである。彼らは自分が不幸である事で憎しみを晴らしているのである。
不幸にしがみついている人は、不幸になるより他に憎しみの感情を表現する方法が分からないのである。
したがって周囲の人に憎しみがある以上、そう簡単にしあわせになれない。
周囲に自分が不幸であることを誇示する事で、憎しみの感情のはけ口を見つけているのである。
不幸は憎しみの表現方法なのである。だから「私は不幸です」と訴えることで、憎しみで傷ついた心が癒される。
「私は不幸です」と訴え続けている人は、生きる根元を忘れて、恨みを晴らすことで生きている。
「私は不幸です」と言うことは「私は悔しい」と言う意味でもある。
もちろん憎しみをこめて「悔しい!」と実際に口に出す人はうつ病になどならない。
周囲を実際に攻撃して恨みを晴らせばそこで終りである。
周囲に向かって「私は悔しい」とか、私はあなたが憎らしい」とか言えない人が、「憎らしいと」言う変わりに「私は不幸です」というである。
それが相手と対立しないで憎しみを晴らす方法なのである。
幼児的願望が満たされず、愛情飢餓感が強い人は相手と対立できない。
相手が憎らしい。しかし相手に愛着もあるので、「私はあなたが憎らしい」とは言えない」。
そうした時に「私は不幸だ」と言うのである。「私は太っているから不幸」と言う人がいる。
そういう人は別に太っていることを解決する意思はないし、太っているから不幸とは本当は思っていない。
それなのに「あなたは太っていない」とトンチンカンな慰め方をする人がいる。
中には「食べる量を少し減らしたら」などと言う解決策までいう人がいる。
環境に恵まれているのに「私は不幸」と惨めな声を出すのは、他人が悪いと思っているからである。
自分の不幸を人のせいにしている。相手に何とかしてくれと訴えている。
「不幸」は「愛して欲しい」と言う心の叫び
人が文句を言うのは愛を求めているからである。「私辛い!」「私は不幸だ!」は、「私を愛して!」という意味である。
「私を愛してくれないあなたが憎らしい」といういう意味である。
「私は不幸」ということは「私をもっと愛してくれ」という心の叫びなのである。
しかし周囲の人は、「あなたはこんなに色々なものを持っているではないか」と言う。「あなたは錦を着ているではないか」と言う。
彼らは「私をもっと愛してくれ」という愛の叫びが聞き届けられないので、ますます不愉快になり、いよいよ不幸を誇張する。
彼らは人生に、あるいは周囲の世界に復讐的になっている。しかも彼らは自分が周囲に復讐的になっていることを意識していない。
「水の見て笑う人あり,錦を着て憂える人あり」と言う言葉がある。
なぜ多くの人は水を飲みて笑う人になれないのだろうか?それはその人が愛を求めているからである。
愛に満たされた人は「水を飲みて笑う人」になり、愛に満たされない人は「錦を着て憂える人」になる。
この世の中には、巨万の富を荷埋もれて不幸な人が数限りなくいることを人々は知っている。
みな小さい頃に愛されなかった人々である。そして愛されなかったことに恨みを持って、絶えず人々を責めている。
だから、少しくらい快適な環境を与えられたくらいでは、なかなか「私は幸せ」とはいえない。
そういったらもう愛を求められなくなる気がするからである。
彼らは快適な環境よりも相手からの愛を感じたい。だから「私は不幸」と惨めな声を出しながら、相手を責める。
テーマ:正直しんどい。
ジャンル:日記
アイちゃんこれを読んだ人気分が滅入るかな~
2006年10月19日 (木) | 編集 |
ユウくん確かにそれは言えるかもでも避けては通れないもんね
そう人の影の部分はみんな避けたいかも、でもそれをしたら
自分がそうなった時困るもんね
じゃあいきますか
ホナスタート

「自分の不幸に周囲の人が責任を取ってもらいたい」
もう一つの理由は、不幸を訴える人は、それによって周囲の人を責めているからである。
何かいいことがあった。しかし周囲の人から「これで貴方も幸せになれるでしょう」と言うような言い方をされると、彼は面白くない。
彼はここで「私は幸せ」といってしまったら、もう周囲の人や自分の人生に不満をいえなくなってしまうように感じるのである。
ある人は野原を渡ってくる風に当たって、「気持ちいいなー幸せだなー」と思う。
しかしうつ病になるような人は、たとえ「気持ちいいなーと感じても、それだけで「自分は幸せだ」と感じることを拒否する。
「今日は晴れた、快適な気候だ、幸せだなー」とある人は感じる。しかしうつ病になるような人は、それを幸せと感じることを拒否する。
つまり心の憎しみが消えていないから、「幸せ」とは言えない。自分が幸せと認めたら、もう周囲の人を責められない。
自分の不幸を誇示する人は、憎しみがあって人を責めているのである。
もちろん彼らは直接面と向かって相手を責める事はない。しかし心の底で周囲の人を責めているのである。
自分の不幸に周囲の人が責任を取ってもらいたいのである。だから憎しみがある以上、どうしても自分が幸せとは認められない。
うつ病になるような人やノイローゼの人が不幸な状況にしがみつくのは、これによって人を責めて憎しみを晴らそうとしているかである。
周囲の人が、「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と言っても不幸にしがみつくのは、憎しみがあるからである。
いま幸せになったのでは憎しみの感情が晴らせないからである。
周囲の人は、彼が復習的になっている事を認識していない。
周囲の人は、彼が自分の運命や世の中や人々に復讐しようとしていることが理解できていない。
不幸を嘆いている人も幸せになりたいと言う気持ちはある。しかしそれ以上に憎しみの感情が強い。
幸せになったら憎しみは晴らせない。
幸せになるよりもまず「この憎しみの感情」をはらしたいのである。
憎しみを持った時に直接相手を攻撃し、復習の行動に出る人がいる。
そう言う人は案外簡単に憎しみの感情を晴らす。根に持たない。
しかし憎しみの行動に出られない人は、不幸にしがみつく。
「私は不幸だ」「私は苦しい」と言う訴えは周囲に対する憎しみを表現した言葉なのである。
アイちゃん不幸って何と思う?
2006年10月18日 (水) | 編集 |
ユウくん人それぞれ違うよねぇ
そうその人の気持ちしだいだよ その人が不幸だと思っても違う人からすれば何でそれが不幸なのと思うときあるからね
じゃあ今日も続きいきますか
ホナスタート

「自分の幸せ」を認められない訳
いつも「辛い、辛い」といっている人がいる。何かよいことがあってもどうしても「自分が幸せ」と認められない人がいる。
それはもちろん不幸な過去を背負っているからであるが、それにはいくつかの理由がある。
一つはそこで「私は幸せ」と思ってしまえば、今まで生きてきた自分の人生がなくなると思えてしまうからであろう。「私は幸せ」と思うことで、自分がなくなってしまうような気がするのである。今、この些細な事で「幸せ」を感じたら、今までの苦しみの意味がなくなってしまうように感じる。俺の不幸はそんな簡単なものではないと言いたいのである。
例えば、自分は芋で蜜を作っていた。そこに蜂蜜を持ってきた人がいた。
その蜂蜜を「美味しい」と言ったら、自分の人生は何だったのかという事である。
寒い所に長い間いた。そして暖かい部屋に入ってきた。その時に「暖かいですか?」と聞かれたとする。
しかしなんとなく不安で「ハイ」といえない。長いこと結核の療養をした。病気は治っている。しかし健康に自信がない。
「健康ですか?」と聞かれる。するとなんとなく不安で「ハイ」と言えない。
一九七三年の石油ショックの時にトイレットペーパー騒動があった。
万一、トイレットペーパーがなくなったら大変だというので主婦が買いに殺到した。
たとえ今幸せでもいつ不幸になるか不安である。その人が「幸せです」と言えない理由の一つは、
生きている事が不確かだからである。
テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃんダイブ分かってきた?
2006年10月15日 (日) | 編集 |
ン~ダイブ分かってきたよユウくん
そう精神的に弱い人はとにかく周りの人が理解してあげるってこと
じゃあ今日も続き行きますか
ホナスタート

「辛い気持ち」を周囲の人が受けとめてあげる
「病気になって、大変な事になった」と言うのは、大変な病気になったという意味ではない。
「大変になった」と騒ぐのは、「私にもっと優しくして」と周囲の人に言っているのである。
「大変な事になった」と言う言葉は「私をもっと愛して」という意味である。
「私のいう事をもっと「おおごとに聞いて」という意味である。「私のこと、大変、大変ね、ともっともっと騒いで欲しい」という意味である。
うつ病者が怪我を使用が、大学に落ちようが、失恋しようが、そのこと事態の解決を求めているのではない。
まず何よりも一緒に嘆いてくれることをもとめているのである。
それを周囲の人は「人生って何でこんなに苦しいのだろう」と一緒に嘆くよりも先にうつ病者を励ましてしまう。
うつ病者は励まされる事を求めているのではない。辛い気持ちを受けとめてくれることを求めているのである。
うつ病者はとにかく愛を求めている。自分に起こった事態の改善を求めているのではない。
まず何よりも「この辛い気持ちをくみ取って欲しい」という事である。事態の改善はその後でよい。
アメリカの進んだ病院では治療に心理的ケアの担当者がつくことがある。
心理的ケアと医者が一緒になってチームを作って治療するのである。
患者が抑うつ傾向を治療する事が秒浮きの治療に役に立つ事が分かってきてからである
人間関係で第一に大切なことは、相手の気持ちをくみとることである。
それは普通の人でもそうである。心理的に健康な人でもそうである。
ただ、このことが極めて深刻な影響を及ぼすのが、生きることに疲れた人に対してである。
生きることに疲れた人に事態を改善する具体的提案をするのは、相手をもっと追い込むことになる。
テレフォン人生相談の相談者が求めている言葉
夫の愛人問題で、二週間前に家を黙って出た主婦からの電話である。現在、実家にいるが、土曜日日曜日には夫のいる家に帰る。
夫の愛人は四十五歳で関係は七年続いている。その愛人は夫に離婚するように迫っている。愛人は喫茶店を経営している。
午後五時に夫が店に入ると七時までに喫茶店を閉めてしまう。夫は暴力もふるうという。
「離婚したら?」と提案したら、「そのつもりはない」と即座に答え、そして「長い間別居しているという事はふりにならないんですか?」
と聞いてくる。「愛人から慰謝料を取りたいの?」と聞くと、たちどころに「いえ、お金はいりません」と強く否定する。
「家を出た私に生活費の仕送りは全くない」というので、「婚姻費用の分担を家庭裁判所に申し出たら」というと、「下宿している大学生の子供に毎月の仕送りをしているから・・・・」と反論する。
さらに「下宿している子供に仕送りしているのに、私にまで費用を送ってくれとは言えないとも言う。
彼女は貯金が二千万あると言う。ここで私が相談者に言っているのは事態解決の方法である。
だから生きることに疲れた彼女は全く私の提案を受け入れない。
彼女が求めているのは、「婚姻費用の分担を家庭裁判所に申し出る」というような具体的な解決方法ではない。
「奥さん辛いねー、夫も愛人も酷い人だねー、それに比べてあなたは偉いよ」という言葉を延々と言ってもらいたいということなのである。「生活費の仕送りはまったくない」と言うから、「送ってもらう方法を」を聞いているのかと思うと間違う。
彼女は事件を解決することより、「こんなに辛い」ということを訴えたいのである。
「こんなに辛い」と言う気持ちを受けとめてもらいたいのである。そして自分の人柄の良さを私に印象付ける事に関心がある。
だから、「周りは酷い人なのに、あなたはよくできた人だね、貴方ばかりが犠牲になって、周りは何て人達だろうね」
といっていれば彼女は安らぐ。
テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃん偏頭痛ってどうしてなるのか分かった
2006年10月12日 (木) | 編集 |
ユウくんパソコンのしすぎじゃないの?
ん~それもあるかなぁ
でもそれだけじゃないみたいだよアイちゃん
じゃあどうしてなるの?
それはこのあとを読んでみてよ
ホナスタート

「小さい頃から愛される事のなかった無念の気持ち」
「私はこんなにも酷い目にあった」という誇張された言葉の意味は、
「何で私だけがこんな目にあわなければならないのだ、私はあの人達が憎らしい」という意味である。
「私はあの人達が憎らしい、あなた達を殴りたい』と、その人は言えないから、自分の慰めを誇張することでそれを訴えているのである。
それはちょうど押さえ込まれた怒りが偏頭痛となって表現されるのと同じである。
それなのに周囲の人は実際にこうむった被害を説明して、あなたを『善意』から慰めようとする。
「そんなに酷い目にあっていないのだよと」説明して慰めようとする。
その結果、あなたはもっと深く傷つく。「私はこんなに惨めなの」という事は「私は惨めだ」という意味ではない。
私はあなたに怒っているという意味である。あなたを許せないという意味である。
日頃の怒りを表現しているのである。生きることに疲れたあなたが何を訴えているのかを、周囲の人は理解しようとしない。
偏頭痛を訴える人を、頭痛薬で治療しようとするのと同じである。
偏頭痛は痛みであるが、それはその人の中に抑圧された怒りや憎しみがあることを告げている。
あなたが自分のこうむった被害を誇張した時に、それが、「小さい頃愛される事がなかった無念の気持ち」の表れと理解してくれるひとはほとんどいない。
物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現されるのである。
だから生きることに疲れたあなたは、周囲の人の視点から解釈すれば、きわめて傲慢な人であり、生い立ちという視点から見れば本当に同情すべき人なのである
同じ体験の解釈が健康な人と違う
「うつ病者は他の人と体験が違うというわけではない。体験は同じだ』とうつ病の研究者アーロン・ベックは言う。
このことはうつ病者を理解するためには大変重要な言葉である。
例えばうつ病者が怪我をした。あるいは『熱がある』と言った。
それは「怪我をした」、あるいは「熱がある」ということだけを言っているのではない。
そうなった「自分は辛い」と訴えているのだ。そうなった「自分をもっと大切にしてくれ」と訴えているのである。
同じ風邪を引いても、心理的に健康な人とは辛さが違う。
その違いを理解しないので、周囲の人の世話は「風邪を治す」ということになってしまう。
だから、うつ病者は「誰も私のことを分かってくれない』と恨みを言うようになってしまうのである。
うつ病者にとって辛いのは、風邪なったこと事態ではない。
うつ病になるような人は、もともと今を生きていることでけで精一杯だったのである。
「もうこれ以上何か事件を持ってこないでくれ」と心の底で叫んでいた。
そこにさらに、風邪という大事件がわが身に起きた。そこで、「風邪になった、もう生きられない、助けてくれ」と訴えているのである。
それなのに、周囲の人は風邪そのものを治そうとする。
生きることに疲れた人とかうつ病になるような人にとって辛いのは、
風邪になって『辛い』という気持ちを周囲に理解してもらえない事である。
うつ病者が風邪になって『辛い』と言う。
すると心理的に健康な人は風邪を引いて辛いのだから風邪を治してあげればいいと思ってしまう。
そして風邪には卵酒がいいから「卵酒を飲んで早く寝なさい」と言う。
周囲の人はうつ病者の「アー風邪になってしまったー」と言う嘆きの気持ちを受けとめるよりも、風邪を治すことに関心がいってしまう。
うつ病者が周囲の人に求めているのは、風邪を治すことではない。
うつ病者は生命力が落ちている。だから風邪になっても、普通の人よりも辛い。
そこで風邪になってしまった事を嘆く。その嘆きはなかなか周囲の人には理解できない。
うつ病者はその辛さを受けとめてくれる事を周囲に求めている。風邪を治してくれとは言っていない。
辛い気持ちを受けとめてくれて、「大変ねー」『辛いわねー』「何であなたばかりがそんなに辛い体験をすることになるんだろうねー」
と言ってくれればうつ病者は心が癒される。そして始めて普通の人と同じレベルの話ができるのである。
つまり風邪を治すのはそれから先の問題になる。うつ病者にとって風邪そのものが最大の問題ではない。
それが「うつ病者と普通の人とは体験が違うのではない』と言う意味である。
テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃん心理を読み取ろうか
2006年10月10日 (火) | 編集 |
ユウくんナンの心理?
うつ病の心理だよ
解らないよ!
んーうつ病になると被害妄想が普通の人以上になるっていうことだよ
それで?
だからそれを少しでも和らげる方向に進めばいいと思う
じゃあいきますか ホナスタート

惨めさを訴える事で憎しみを表現する
生きることに疲れてような人がブツブツと、「私は傷つけられた、傷つけられた」と言い続けていることがある。
周りの人は「そうかなー」と疑問に思う。彼が「私は傷つけられた、傷つけられた」ということは、
私はあの人が憎らしい、許せない、殺したい」と言う意味なのである。
日頃の憎しみの感情をストレートに吐き出せないので、
「傷つけられた」と惨めさを誇張することで憎しみの感情を吐き出そうとしているのである。
それを周囲の人は、「皆は貴方のことをそんなに傷つけていないわよ、何か勘違いをしているのではないの」と言ってしまう。
周囲の人は、惨めさを訴えている人の言葉の中にある心理を読み取ろうとはしない。
生きることに疲れたあなたが、「私はひどい目にあった、私はとんでもない目に合わされた」といつまでもいつまでも被害を訴えているとする。
あなたはそういいつつ周囲の人を責めているのである。あなたは周囲の人に怒っているけどその怒りは直接表せない。
そこで惨めさや受けた被害を訴えているのである。
すると周囲の人は、「そんなに酷い目にあっているのかしら?私はそうは思わないけど」と疑問視する。
そこであなたはもっと深く傷つく。事実、あなたは実際にあった被害を誇張している。
周囲の人の言う通り、あなたが言うほどあなたは人々から酷い目に合わされてはいない。
しかしあなたが、「私はこんな酷い目にあった」と事実を誇張するのは、
その言葉で心の底に根雪となっている憎しみの感情を吐き出そうとしているからである。
あなたがその言葉で訴えようとしているのは、実際の被害の状況ではなく、
日々吐き出される事もなく心の底に積もり積もった憎しみの感情である。
テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃん今日はなぜ明るくするのかだよ
2006年10月09日 (月) | 編集 |
どう言う意味なのユウくん?
どんなに辛くても明るくしていないと後が大変っていうことだよ
まだ分んないんだけど
読めば分かるよアイちゃん
じゃあいきますか ホナスタート

自分の不幸を嘆く人の周りには人は集まらない
うつ病になるような人や神経病的傾向の強い人に、周囲の人は長い間には大抵嫌気がさす。
それは彼らが周囲の人に比べて経済的に恵まれているのに、何を言っても不運を嘆き、生きる事の苦しさを言っているからである。
つまり彼らは何事についてもマイナスの発想である。お金に困っているわけでもなければ、怪我をしているわけでもない。
失恋しているわけでもない。うつ病になるような人や神経病的傾向の強い人は、それなのにいつも「私は不幸だ」と自分の人生を
嘆いている毎日「辛い」といっている。そして何も言わなくても「辛い」という雰囲気を出している。
時には自分は一番不幸と言っている。しかし、病気になって入院しているわけではない。
いや、それどころか普通の人より肉体的には健康である。そこで相談にのっている周囲の人は、嘆いている人に嫌気がさしてくる。
そうして人々はうつ病になるような人や神経症的傾向の強い人から去っていく。
「辛い、辛い」と嘆いている人から、人は去っていく。それは大人でも幼児でも同じである。
「辛い良ー」というよう字からは、次の遊びの時に、他の子は「やだー」と逃げて行く。
不幸は感染する。隣の人も不愉快になる。不幸な人の部屋の空気は暗くなる。まわりも気が落ち込む。
だから不幸な人の周りには人が集まらない。そしてそれまでいた人が去っていく。不幸な人は不幸を呼ぶ。
教授が暗い顔をしてすごい話をしても、学生は覚えていない。学生の頭に入らない。
うつ病の人の言葉は翻訳して理解する
しかし、うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人の気持ちからいえば、何も綺麗な家を望んでいるのではない。
だから「お前はこんな綺麗な家があるではないか」と言う言い方は、彼らにしてみれば何の意味もないのである。
彼らが望んでいるのは「辛いわねー」と言う同情と、それに耐えているあなたは、「偉いわねー」と言う賞賛の言葉なのである。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は「認めてもらいたい」のである。
認めてもらいたいのに、「何もお金に困っていないのに」と周囲の人は言うから、「何も私の事を分かっていない」と言う言葉になる。
彼らは愛情飢餓感が強いから愛情を人以上に緊急に求めているだけである
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は、お金を欲しがっているのではない。
「あなたは凄い」と言う社会的承認を求めているのである。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人の「生きるのが辛い」と言う言葉は、もっと私を認めてほしい」と言う意味である。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人と、心理的健康な人の間の会話には通訳がいる。
実は日本語から日本語への通訳の方が、外国語への通訳よりも日常生活では大切なのである。
外国語は通訳しなければ、お互い分かっていないと認識する。しかし日本語から日本語への通訳がないときには、
お互い分かっていないのに分かっていると思っている。
もし日本語から日本語へ正しく通訳できる人がいれば、世の中の人間関係のイザコザは半分以上なくなっているだろう。・・・つづく
アイちゃん今日は心のケアについてだよ
2006年10月06日 (金) | 編集 |
今日はちょっと俺にも身に覚えがある
ユウくん相手の気持ちを察するのって難しいわね
仕方ないよ人それぞれ違うんだから でも勉強になることは確かだね
じゃあ行きますか ホナスタート

母親の役割は子供のケア
子供が怪我をする「痛い」と言うすると赤チンをつけて、「治るわよ」と言う母親がいる。
もっと酷い母親になると、「これだけの傷でそんなに痛いの?」と言う。
子供は「痛い」ということを言っているのではない。「痛いけど僕は頑張っているぞ。
偉いだろう、凄いだろう」と訴えているのである。母親にその「強い自分」を認めてほしいのである。
軽い傷を大げさに騒ぐ子供は、決して「痛いのを治してくれ」といっているのではない。
そこを間違えるから子供はいよいよ騒ぎ、すねる。
熱があるというとすぐに解熱剤を飲ますような母親がいる。これでは母親ではなく、医者である。
医者の役割と母親の役割は違う。母親の役割は心のケアである。
何かにつけてマイナスの発想をする夫がいる。例えば、「今の時代俺の会社もリストラの嵐で人手不足で大変だ。
もうじき俺も倒れるかもしれない」という。すると「少しは休めないの?」とか
かくかくしかじかのようにプラスの発想をするべきだという妻がいる。
夫が求めているのは妻の対策やプラスの発想ではない。「そんな物凄い時代に、リストラの嵐の中で頑張っているあなたは凄い」
と妻に認めてもらいたいのである。人がマイナスの発想をするのは、認めてもらいたいからである。
愛情飢餓感がマイナス発想の原点である。
物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現される。人がマイナス発想をした時に、そのことを考慮にいれないで、
「こういうプラスの発想をするべきだ」といえば、相手を不愉快にするだけである。
人は理由もなくマイナスの発想をするのではない。プラスの発想プラスの発想と騒いで、いよいよ相手を不愉快にするひとがいる。
本人はマイナスの発想をする相手を励ましているつもりだが、
実際にはいよいよ相手のやる気をなくさせ、落ち込ませ、不愉快にしているだけである。
テーマ:
ジャンル:日記
アイちゃん今日は夫婦関係だよ
2006年10月04日 (水) | 編集 |
ユウくん夫婦関係って?
それは俺みたいにならないように相手の考えていることに
気づいてあげることだよ
そうね夫婦にとって一番大事なことかもね
じゃあアイちゃんいくよ
ホナスタート

大人だって認められたい
いや子供ばかりでなない。大人だって認めてほしい。
この「認めてほしい」という気持ちをくみ取りそこなうから人間関係がうまくいかないのである。
子供でも大人でも、「凄いねー」と褒めてもらうために、ある事を話題に出してくるという事は意外に多い。
自分のしたこと、あるいは自分の立場などを認めてもらいたくて、ある事を話題に出してくる。
夫は会社のことを話題に出す。
たとえば部下のできの悪さを話題に出すそれはそのできの悪い部下に耐えている「俺は凄いだろう」という言う意味である。
夫は妻から褒めてもらいたいのである。それは部下でも上司でも恋人でも関係ない。
例えば夫が同僚について「押しが弱い、何事も事なかれ主義で、はっきりと物事を言わない」といったとする。
そこで妻が「はっきりと、あなたのこう言う所が嫌いだとなぜ言えないの」と具体的な解決策を言ったとする。
ところが夫が求めているのは解決策でなない。
妻の「あなた、会社で大変なのね」というねぎらいの言葉である。
それを妻が単に「できの悪い部下の話題」「優柔不断な同僚の話題」としてあつかうから夫は不愉快になるのである。
つまり妻は夫の話を聞いた後で、「それに耐えているあなたはすごい」と言わないで。
具体的に「こうしたらいいのではないか」と提案したので不愉快になったのである。
夫はそんな具体的な提案を妻から、聞くために、部下や同僚の事を話しているのではない。
「上も下もだらしがない中で、あなたは頑張っているのね。
凄いわ私なんかに真似できないわ」と誉めてもらうために会社の人間を話題にだしている・・・・・つづく
テーマ:ひとりごとのようなもの
ジャンル:日記
アイちゃん今日は子供に関してだよ
2006年10月01日 (日) | 編集 |
アイちゃん子供にはどうやって接したらいいと思う?
子供の事を考えることじゃないの!
それは当たり前でしょアイちゃん まぁ結婚生活に失敗した俺が
とやかく言える立場じゃないけどね
てことで行きますか ホナスタート

子供は親に認めてほしい
生きることに疲れた人は、人に認めてもらおうとして無理をして頑張りすぎたのである。
人は周囲の人から「認めてもらいたい」という要求の強さで生き方を間違える。
「認めてもらいたい」という要求は、幼児期に愛されなかった人間には想像を絶するほど強いものがある。
普通の子供でも、何より望んでいるのは「思いやり」ではない。自分のしたことを「認めてほしい」のである。
例えば子供が母親に、「荷物重いでしょ、一緒にお使いに行ってあげる」といったとする。
母親は子供が遊びたいのに、お使いに連れて行くのは可哀想だと思って、いいわよ、お母さん一人で行くから」と言った。
ところが子供は不愉快そうな顔をした。母親は子供が遊びたいだろうと思って、「いいわよお母さん一人で行くから」と言ったのである。
それなのに子供はふてくされた。母親はとまどった。
子供は母親の役に立ち、認められたかったのである。お使いに行って母親から、「助かったわー」と言ってもらいたかった。
そういう感謝の言葉を言ってもらえることが嬉しいのだ。ところが母親は「自分ひとりでいい」と言った。
子供は役に立つ機会を失った上に、母親から感謝をしてもらえないし、お使いに行くことで「認めてもらおう」としたが、
それもできなくなった。子供が面白くない顔をするのは当たり前なのである。
子供は親に何かをしてもらうことは確かに嬉しい。保護をを求めているし、世話をしてもらいたい。
しかし、それ以上に求めているものが「自分のしたことを認めてほしい」ということである。
うつ病者も自分が「役に立っている」と感じるときには気分が好調であるという。
子供は自分のしたことを「ワー凄い」と認めてほしいときに、認めてくれないと悔しい。面白くない。不愉快である。相手を憎む
投げた石が木に命中した時に「ワー凄い」認めてほしい。しかし「お使いに一人で行く」と言った親は親で子供の事を考えて言って
いるのにと子供の不満に不満になる。あるいはそれ以外のことを含めて親として「こんなにしてやっているのに」と、
子供の不満に不満になる。不満になった子供だって親がしてくれたことは知っている。
旅行に連れて行ってくれた、好きな御料理を作ってれた。服を買ってくれた、病気の時病院に連れて行ってくれた、
お誕生会を開いて友達を呼んでくれた。
しかしそれと「認めてほしい」と言う願望が満たされるか満たされないかは別の話なのである。
子供は、何してもらっても親が「認めて」くれなければ不満なのである。・・・・・つづく
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ジャンル:日記
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